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天草における切支丹の歴史|市議会議員等が知っておくべき地域の歴史

天草でのキリスト教の歴史です。地域の歴史を知っておくことは市議会議員等政治家には欠かせぬことでしょう。

天草へのキリスト教伝来(南蛮船の上陸)|五人衆時代(1566~1587)

今から450年前、日本が戦国時代の頃、西洋は大航海時代で、宗教革命も起こっていました。
1549年、ポルトガルの船が鹿児島に上陸しました。その目的は、黄金の国と呼ばれた日本との貿易の拡大すること、宗教改革でプロテスタント(注1)が誕生して脅威を感じたカトリック教会が布教を行うことだったと考えられています。
カトリックの布教を目的に日本に降り立ったのは、イエズス会(注2)のフランシスコ・ザビエル(注3)でした。彼の活動により、はじめて日本にキリスト教が布教されました。

注1:プロテスタント
宗教改革においてルターらがカトリック教会に対して教会の制度のありかたを批判したことからプロテスタントが誕生した。プロテスタントとは抗議者という意味。
注2:イエズス会
カトリック教会の修道会。1534年宗教改革に対抗して、イグナティウス=デ=ロヨラらによって結成。同会士ザビエルは日本へ初めてキリスト教を伝えるなど、アジアや新大陸をはじめとして世界各地で布教活動を行う。耶蘇(やそ)会。(大辞林 第二版 三省堂)
注3:フランシスコ・ザビエル
スペインのバスク地方の出身のバテレン。(1506~1552)
1540年、スペインで創立された布教団体イエズス会の創立メンバーの一人。創立後9年目にアジア担当としてインドのゴアに着任、その後セイロンやマラッカで布教活動をしているとき、日本人ヤジロウにめぐり合い、彼を案内人として1549年に鹿児島に上陸、日本各地を伝道した後、1451年日本から中国へ渡り、翌年中国で病没。

※バテレン=司祭、イルマン=修道士

キリスト教全盛期(天草合戦)|小西時代(1588~1600)

天草五人衆は、は肥後南半国を支配していたキリシタン大名小西行長と合戦し、敗戦しました。そして1589年、天草は小西行長の支配となり、切支丹宗はその保護を受けるようになります。

キリスト教禁制・弾圧期(幕府による禁教)|寺沢時代(1601~1637)

1610年のデウス号事件(注20)、1612年の岡本大八事件(注21)が起こり、これらの当事者が二人ともキリシタンであったことから家康は禁教令(注22)を決意します。
これによって武士だけでなく、一般庶民までも禁教され、1612年、1628年、1634年と再三にわたって禁教令が出され、1629年には絵踏み(注23)を実施、キリシタンの大検挙も行われ、相当な数のキリシタンたちが迫害され、殉教していきました。
そして多くの宣教師たちも国外追放されていきました。

注20:デウス号事件
大村純忠・大友宗麟らと共に少年使節をローマに派遣した島原藩主、有馬晴信が1608年、チャンパに派遣した船がマカオに寄航した際、乗組員がポルトガル人と紛争を起こし、処刑を受ける。この報復として翌年長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈した。
注21:岡本大八事件
デウス号撃沈の功を幕府に上申し、有馬氏の旧領、肥前三郡の返還を斡旋するという本多正純の臣、岡本大八にだまされて有馬晴信は多額の金品を贈賄した。これが発覚して事件として拡大し、大八は火刑、晴信も甲斐に流刑。
注22:禁教令
幕府は1612年に天領でのキリスト教を禁止し、翌年には全面的に禁止の命令を出し、改宗を強制した。 その理由として、

キリスト教徒がしだいに増加すると、幕府はキリスト教徒が団結して一揆を起こすのを恐れた。
キリスト教は、人間の平等や生命の尊重を説き、封建社会の考えに合わない面が多く、幕府は警戒した。
新教国のオランダは、旧教国のスペインやポルトガルが布教によって領土を奪う野心があるなどと幕府に告げた。と考えられている。

そして翌年には「耶蘇教大追放令」が発令され、宣教師の追放、教会の破壊、キリシタンの処刑などの大迫害がはじまった。

注23:絵踏み
転宗したキリシタンが棄教した、または一般の人々がキリスト教を信仰していない証拠として、紙や金属板に描かれた聖画像を踏むこと。
キリシタン検索制度のなかでも最も有効で、精神的に最もつらいとされていた。
長崎地方で1629年頃から始められ、とくに厳しかった。
1635年ころには全国的に実施されたと言われる。

天草・島原の乱(乱の発端・天草四郎)|天草・島原の乱(1637~1638)

厳しいキリシタン弾圧と重税、飢餓にみまわれていた天草、島原地方。1637年10月、島原の口ノ津村の与三左衛門(よさざえもん)が年貢の未納米30俵のかたに、身重の嫁を水牢に入れられ、母子もろとも死亡するという悲惨な事件が起こりました。

そして、宗門改め(注29)に来た代官、林兵左衛門(びょうざえもん)を農民が殴り殺す事から乱が起こります。この2日前、林兵左衛門は村の者たちがキリストの絵像を踏んでいる所に乗り込んで絵像を破り、代表の者を縛り牢に入れました。農民の不満は爆発し、乱はまたたく間に島原半島や天草島へと広がっていきました。

注29:宗門改め
江戸時代、キリスト教徒を発見するために行われた信仰調査。
島原・天草一揆(1637~38年)後、幕府はキリスト教禁止を強化し、宗門改役を設置。人々はかならずどこかの寺の檀家となり、寺がキリスト教徒ではないことを証明する寺請制度をとった。
当初は キリシタンを摘発するために臨時に局地的に施行された。1614年京都所司代板倉勝重が転(ころ)びキリシタンから寺手形を取ったのが寺請制度の始まりであり、1635年、幕府がキリシタン宗旨改を下達したことにより寺請制度は全国的に実施されることになった。

鎖国・代官行政(乱後、天草復興へ)|かくれキリシタン時代(1638~1873)

乱が終わってからの天草は、寺沢(てらさわ)領から山崎(やまさき)領を経て、寛永18年(1641)幕府直轄の天領(てんりょう)(注40)となり、鈴木重成(すずきしげなり)(注41)が初代代官に任命されました。重成は原城攻撃では松平信綱(まつだいらのぶつな)に従って参戦し、一揆方の心情をよく理解していたようです。長崎、有馬、富岡に一揆の首は埋められましたが、重成は富岡首塚に建碑(けんぴ)して供養祭を行い、兄の正三の協力を得て各地に寺院を再建して人民の教化に努めています。この時の組織と体制は江戸時代の天草支配の基礎となりました。
鈴木代官は、荒れ果てた天草の復興に力を注ぎました。このことで、現在でも「鈴木さま」と親しまれ、鈴木神社に祀られています。

注40:天領(てんりょう)
(1)江戸幕府の直轄領。幕府の重要な経済的基盤であり、元禄年間(1688-1704)には四百万石に達した。全国に分布し、郡代・代官を配置し支配させた。⇔私領
(2)天皇・朝廷の領地。(新辞林 三省堂)
注41:鈴木重成(すずきしげなり)
鈴木三郎九郎重成は島原の乱後天草が天領となった時代の初代代官で、戦後の天草復興に努力した人である。天草の民を救うには過重な年貢を軽減するより外にないと決心して、このことを幕府に進言したといわれている。
また、人心の救済をと、兄の正三(しょうさん)と共に仏教政策を推し進めた。天草各地の社寺を創建、復興させ、中でも曹洞宗の東向寺(本渡市)、国照寺(苓北町)、浄土宗の崇円寺(河浦町)、円性寺(栖本町)の「天草四ヶ本寺」を厚く保護し、天草の教化策の拠点とした。
1653年10月14日江戸の私邸で、石高半減を訴え、自刃した。(一説には江戸で病となり、病死したともいわれている。)

キリスト教解禁(1873~)

1873年、2月19日、キリスト教の禁制が撤廃され、解禁となりました。
アルメイダ神父以来、長い信仰の歴史がある大江では、このときいちはやく教会堂が建てられ(注48)、多くの信徒が集まってきました。

注48:大江天主堂
現在の白いロマネスク建築は、昭和8年にフランス人のガルニエ神父が私財を投じて建てたもの。

以上、市議会議員等政治家が知っておくべき、地域の歴史でした。